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beachmollusc ひむかのハマグリ


海辺の浅瀬は水産動物のこども達のゆりかごです
by beachmollusc
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海辺の自然を取り戻そう
 自然の恵みを後世に残すためには、その生態と環境を深く、よく知ることが基本です。

 海岸の浅瀬、干潟や砂浜は資源生物のゆりかごです。
しかし、それにおかまいなしに埋立てや海岸構造物の建設、水質汚染も加わって、日本中の水辺、海辺の環境は撹乱され、破壊されてしまいました。その結果、ハマグリなど干潟の動植物の多くが絶滅危惧種となっています。

 このブログでは、主に砂浜環境の保全を念頭において、日本各地の山、川、海の姿を調べて見てまわったこと、
そして2006年5月に移住した日向市の海辺と里山の様子や生き物などを紹介します。

このブログにリンクを張ることはご自由にどうぞ。

    - 自己紹介 -

大学院博士課程修了後7年間の海外での研究と28年余り大学教員をしていました。

海の無脊椎動物(貝、ヒトデ、サンゴ、クラゲなど)が専門、自称の学位は Doctor of
Underwater Marine Biology
(DUMB:バカセ)

楽観的な悲観論者または悲観的な楽観論者:生態的に無理をしている人類の滅亡は近いだろうが、それも自然の摂理じゃないのかな

せっかちな慎重派:ゆっくり
見極めて急いで集中的に
お仕事します

好きなもの:日本蕎麦が一番、パスタ・スパゲッティ、うどんもよし、つまりメンクイです

嫌いなもの:人混み、投棄ゴミ、マスゴミ、脳衰官僚

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縄文時代以後における宮崎平野とその海岸線の変化

完新世最高位旧汀線高度分布からみた房総半島の地殻変動
宍倉正展 - 活断層・古地震研究報告, 2001
http://unit.aist.go.jp/actfault/seika/h12seika/houkoku/boso.pdf

外山 秀一 (著) 古今書院 (2006) 遺跡の環境復原―微地形分析、花粉分析、プラント・オパール分析とその応用 
第4章 沖積平野の形成と遺跡の環境(宮崎平野―大淀川下流域における古環境の復原

宍倉正展さんが書いた論文の中の一文<沿岸の地形・地質からは間欠的な地震隆起を窺わせる>と外山秀一さんの本で指摘された<宮崎平野の海岸部にある海岸線に平行して出来ている砂丘列>とが頭の中でリンクした。

宮崎では巨大地震で地殻変動が起こったというような話はないと思われ、九州大学のサイトでも宮崎平野においては地震を伴わないゆっくりとした地盤隆起を想定している。はっきり見えるsmoking gun(証拠)がないぞ、ということであるが、実はそれがあったのではないか、砂丘列の存在がそれではないかという想像が浮かび上がった。

九州東部における過去約 12.5 万年間の地殻上下変動
http://wwwsoc.nii.ac.jp/jepsjmo/cd-rom/2000cd-rom/pdf/da/da-001.pdf

宮崎平野の地磁気異常(日向灘沖海底を震源とする地震に対応)についていろいろな報告がある。しかし、過去に記録された歴史では南海・東南海地震に規模は及ばない。つまり大地震といってもマグニチュードで8以上はないと想定されているらしい。

宮崎・日向灘地域のブーゲー異常
http://www.jpgu.org/publication/cd-rom/2004cd-rom/pdf/t054/t054-p007.pdf
<四万十帯南帯と日向灘の強い負異常:宮崎市北部に中心を持つ極めて強い弧状負異常が極めて顕著。四万十帯南帯の北部では宮崎層群との境界が水平変化勾配の急変点をなすが、南部では四万十帯の中に食い込み、日向灘の顕著な負異常の成因が深部構造、特にフィリッピン海プレートの沈み込み形状に支配されたテクトニクスに起因することを強く示唆する。>

宮崎地域の重力異常について
http://www.gsj.jp/Pub/Bull_new/vol_56/56_05/56_05_03.pdf

九州東部沿岸における歴史津波の現地調査 : 1662年寛文・1769年明和日向灘および1707年宝永・1854年安政南海道津波
羽鳥, 徳太郎 東京大学地震研究所彙報. 第60冊第3号, 1986, pp. 439-459

以上の情報は尊重するとしても、下に述べる話は検証を要するのではないだろうか。

{砂丘列が形成されるために何が必要か}

海岸に沿った顕著な地形として砂丘の存在はよく知られる。それが出来るためには海岸部の地盤の高さが海水面に対して安定しているか、隆起することが前提になるだろう。しかし、それが列を成すためには一定速度での連続的な隆起では説明できない。地盤が時々大きく隆起して、その後ある期間安定した海岸線が維持される間に個々の砂丘が飛砂の集積で出来あがるのだろう。つまり間欠的な隆起を想定することが必要である。この隆起は海水面の低下でも同じ効果がある。また、砂丘の規模、すなわち砂の量は、その供給堆積速度に時代変化がなければ、地盤が安定していた時代の長さに比例するだろう。海岸が沈降、あるいは海水面が上昇している時代には、既存の砂丘があったならば、それは海に飲まれて消えるはずである。

内陸にある砂丘の方が海岸に近い砂丘よりも時代が古いはずである。

外山(2006)によれば、宮崎平野北部で海岸線に平行した3列の「砂堆(過去の海岸砂丘とみなす:淘汰のよい褐灰色の細砂層:現在の前浜と砂丘の砂と同じ性状-筆者注)」が発達している。以下にその詳細をまとめて引用する。

内陸のI区では標高12~14mの地域に幅0.5~1kmの平坦地を形成し、海側に5~6mの急な崖(おそらく浜崖の名残、筆者注)があり内陸側は緩やかに傾斜する。この砂堆の上には縄文時代後期から古墳時代の遺跡が分布する。

中間のII区の砂堆は標高4~13m、幅300~500mで細長くなっている。これには弥生時代前期(2500年前くらい、筆者注)から古墳時代までの遺跡がある。

海に近いIII区の砂堆は内陸側に頂部をもち、住吉神社の北で最高28mに達するが、海側に傾斜していて4~5mの崖を持って海岸線に接する(これが現在の状態、筆者注)。この上には弥生時代後期以降の遺跡が分布する。つまり、これが現在の海岸砂丘である。

以上の3列の砂堆については、それぞれの形成時期は特定されていないが、上に乗っている遺跡の時代によって、内陸から順に縄文時代後期、弥生時代前期、弥生時代後期のそれぞれの前の時代に形成されたと推定される。縄文時代後期とは、温暖な縄文前期の高い世界の平均水面(海水準)から数m低下した時代、ここでは便宜的に今から4000年前頃までにI区の砂堆ができたと考える。

II区の砂堆はおそらく今から3000年前までの形成ではないか。弥生時代にも一時的に温暖化と低温化が交代した(海水準の上下変動)時期がある。III区、つまり現代の砂丘が今の形を陸側で造り出しはじめたのは1000年前ぐらいであろうか。

内陸部の砂丘の標高が高くないのは二次的に侵食を受けて低下したのだろうが、浜崖のような急傾斜地形が保存されているように見えるのはなぜだろう。そして、I区とII区の間の切れ目はどうやって形成されたか、というのが平野形成初期の宮崎平野の海岸線と地盤の変化を読み解く鍵になるだろう。

平均海水準の変化は4000年前から現在まで、極めて小さいようである。その変動レベルは、現在でも起こっている変化、たとえば黒潮の流路や勢力の変化で起こる海岸部での水面変化(数m規模)とか、潮汐による干満差(約2m)と同程度あるいは以下、そして台風の高潮や津波のような短期変動(最大5から10m規模)よりも小さい。また、最近の半世紀間の海水準の上昇も10センチレベルと推定されている。そこで、過去4000年の間で海水準変化そのものが卓越した影響を及ぼしていないと考えておく。言い換えれば、この間の海面変動は基本的に地殻と地盤(沖積平野部)の上下変化という前提で話を進める。

推論を進める前に注目すべき問題がある。それは縄文海進の時代(6500年前から5500年前としておく)の宮崎平野の遺跡が、最近、高速道路の建設に沿って次々に発掘されていて、その多くは標高60mから100mのシラス台地に乗っている。それより古い沿岸低地の遺跡は海進時代に海の堆積物下に埋没したものが多いだろう。

外山による縄文海進最盛期、6000年前の宮崎平野の復元で特徴的なことは、大淀川が現在の平野部の下で現在の海水面より最大50m下まで険しい海底峡谷を刻んでいたこと、海岸は現在の平野ではなくて山間部の裾にあって、台地はそこここにあっても平野はなかったことである。この時代の縄文貝塚は古大淀川の支流が山間部から低地に流れ出た場所に沿った台地の上に残っている。つまり、宮崎平野は存在していない(海底にあった)ので、当時の縄文人は複雑に入り組んだ険しい傾斜の山地が直接海にさらされた、厳しい世界に住んでいただろう。関東平野などの縄文人の生活環境と比べて、かなり異なっていたはずである。干潟など浅い海岸は周囲になくて、貝類採取は岩礁のものが主だったかもしれない。ただし、小さい入り江やポケットビーチはあっただろうし、河口には多少の獲物があったらしい。

最大海進期の海岸線として、外山は、最奥部で現在の大淀川河口から約15km上流に遡り、現標高の8~9mと推定した。その場所では地下4mあたりから貝の化石がボーリングで掘り出されている。また、現河口から7km上流の跡江貝塚(縄文時代早期~前期)から出土したものは、下層のシジミから上部(より新しい時代)にハイガイやカキなどに変わる。つまり、沿岸で淡水あるいは汽水から海水に変化したようである。この場所は現在の大淀川が平野部に出たすぐにあって、周囲からみて小高い場所である(現在標高30m以上)。これが宮崎平野で見つかったもっとも古い縄文遺跡で、縄文海進期には浅い海の中の小島だったらしい。

話を海岸に沿った砂丘列に戻したい。

縄文後期から現在まで、宮崎平野は隆起を続けていたようである。4000年前のI区砂堆が出来た頃、その海岸線は砂堆の海側で、現在の海岸線よりも2kmくらい内陸にあっただろう。つまり、その後現在まで、海岸線は2kmほど海に向かって進んだと考えられ、それはおそらく地盤の隆起によっていた。前進速度は毎年0.5m平均である。過去6000年間の九十九里浜の海岸線の前進速度は年平均1.6mと推定されているが、それは宮崎の約2倍の速さである。

海岸部から海底にかけての傾斜、つまり大陸棚上部の斜面の傾斜が九十九里平野と宮崎平野ではかなり違う。海岸から水深100mまでの水平距離で比べれば約2倍違っている。より勾配が強い宮崎平野では海岸隆起の標高1m当たりの海岸線の前進距離は短くなる。単順に比べれば、九十九里では1mの地盤隆起で約400m前進、宮崎では約200m前進となる。

そこで、隆起速度に換算して大雑把にいえば、過去6000年間で九十九里浜海岸は8キロ前進したと推定され、宮崎平野海岸は4000年で2キロ前進した。九十九里浜では20m隆起し、宮崎平野では10mの隆起の計算である。宮崎平野が過去に隆起した高さは、地殻の隆起が一定速度であったとすれば、6000年前に換算して約15mとなって、実際に見て取れる古海水面の標高約9mよりもかなり大きい。九十九里での古海水面の推定高は堆積物の研究で約6m(増田ほか、2001)そして陸上に残った海面の痕跡から調べた結果は約10m(宍倉, 2001)であった。こちらは2倍くらいの不一致である。おそらく、海岸に近接している海岸斜面の計算が実態とよくあっていないとも思われるが、それでも地形と海進速度から想像できる隆起量との不一致は、ひょっとすると地殻隆起のかたわらで、堆積物である沖積層の沈降が起こっているからかもしれない。その差し引きが実際に見える隆起分の標高、と考えればつじつまが合う。つまり、一定で連続的な地盤の隆起は想定できないだろう。

というところで、砂丘列のできる理由を想像してみた。

地殻の突然で大きな隆起(多分1回で2~4m)は大地震に伴って起こるだろう。そしてその後に緩やかな沈降で元の高さに戻ろうとするが、再び地震隆起が起こる、という繰り返しがあることを前提にする。さらに、沖積平野では海底堆積物が陸化する結果、砂粒子の間隙に含まれていた水分が抜けながら堆積層が収縮することも考えられる。時間が経って収縮すれば標高は下がる。また、これには地震による揺さぶりも影響するかもしれない。実際、九十九里平野では最近の地震に伴った小さい地盤低下を観測している。

地盤が一気に大きく隆起し、その後は緩やかに沈降するモデルでは、海岸砂丘はだいたいそのままの地形を保って内陸に取り残され、新たに海側に大きく前進した海岸では新しい砂丘形成が始まるだろう。宮崎平野で、たとえば一気に5mの隆起があれば1kmの海岸線の前進であろう。そこまででなくても隆起が2mあれば400mくらい海岸線が移動するはずである。逆に言えば、そのくらいの移動が一気に起こらなければ砂丘列という不連続な地形構造は出来ないのではないだろうか。

新しい砂丘が成長している間、海岸がほぼ固定されているとして、さらに内陸側では地盤がゆっくり沈降するものとすれば、古い砂丘は沈みながら侵食され、持ち上げられた当初の標高から次第に低くなるだろう。砂丘の後背地に低湿地が形成されるわけである。

大きな隆起後の海岸部で、後で沈降が進んでくると、できあがっていた砂丘の海側の先端部が侵食されて浜崖が発達すると思われる。もしかしたら次の大きな隆起の前に地殻の沈み込みがあるのかもしれない。それが内陸に取り残された砂丘の海側に浜崖地形が保存された理由かもしれない。

さて、上の想像どおりのことが実際にあったとすれば、過去に非常に大きな地震による大規模な地盤隆起を2回想定しなければならない。その時代としては3000年前と1000年前くらいが想定できる。想像を膨らませれば、2000年くらいの間隔で巨大地震が宮崎平野を襲ってきたのかもしれない。次はいつだろうか。

現在、住吉海岸から石崎浜附近にある(侵食性?)浜崖は、一つは海岸林の植林域が海側に拡大されて構造的に固定されたため、バームが洗掘されて出来たものだろう。もし、海岸が緩やかに隆起していて、それに伴って汀線が沖に進んでいれば、洗掘するような波浪が届かないで済んだかもしれない。しかし、実際に汀線は陸側に移動しているので、むしろ地盤の沈降を疑うこともできる。九十九里平野ほどの規模ではないが、一ツ瀬川附近で地下水のくみ上げによる天然ガスの採掘が行われていて、附近の水準点では地盤沈下が記録されている。これ以外に水産養殖やハウス園芸栽培などで地下水のくみあげが盛んだそうである。

地下水のくみあげで起こる沖積層の地盤沈下は都市部で目立って、被害も大きくなったので現在は規制が強化されている。しかし、都市部以外では規制が緩やかである。九十九里浜の砂浜侵食を誘発したのは海岸構造物によって沿岸漂砂の偏りも影響しただろうが、海岸部での急速な地盤沈下の影響で汀線が陸側に移動して、海岸林をガードする構造物、特に護岸に嵐の波浪が強く当たるようになったからではないだろうか。このような砂浜侵食に対して様々な構造物を設置し続けることで、結局は海岸のかなりの範囲で砂浜消失をもたらしたのだろうと考えられる。宮崎の海岸でその二の舞を演じようとしてるが、何がどうなっているのかを理解しないままで従来型の防護対策を講じても、九十九里と同じようなしっぺ返しを喰らうだけであろう。

by beachmollusc | 2008-09-11 10:36 | 評論
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