beachmollusc ひむかのハマグリ


海辺の浅瀬は水産動物のこども達のゆりかごです
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海辺の自然を取り戻そう
 自然の恵みを後世に残すためには、その生態と環境を深く、よく知ることが基本です。

 海岸の浅瀬、干潟や砂浜は資源生物のゆりかごです。
しかし、それにおかまいなしに埋立てや海岸構造物の建設、水質汚染も加わって、日本中の水辺、海辺の環境は撹乱され、破壊されてしまいました。その結果、ハマグリなど干潟の動植物の多くが絶滅危惧種となっています。

 このブログでは、主に砂浜環境の保全を念頭において、日本各地の山、川、海の姿を調べて見てまわったこと、
そして2006年5月に移住した日向市の海辺と里山の様子や生き物などを紹介します。

このブログにリンクを張ることはご自由にどうぞ。

    - 自己紹介 -

大学院博士課程修了後7年間の海外での研究と28年余り大学教員をしていました。

海の無脊椎動物(貝、ヒトデ、サンゴ、クラゲなど)が専門、自称の学位は Doctor of
Underwater Marine Biology
(DUMB:バカセ)

楽観的な悲観論者または悲観的な楽観論者:生態的に無理をしている人類の滅亡は近いだろうが、それも自然の摂理じゃないのかな

せっかちな慎重派:ゆっくり
見極めて急いで集中的に
お仕事します

好きなもの:日本蕎麦が一番、パスタ・スパゲッティ、うどんもよし、つまりメンクイです

嫌いなもの:人混み、投棄ゴミ、マスゴミ、脳衰官僚

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宮崎平野とその砂浜海岸の特性

宮崎市の海岸における砂浜侵食問題に関係して議論されている内容をオンライン情報で見ていると、沿岸海洋学的な地域特性や地史・環境履歴を考慮しないで漠然とした一般論ベースで説明しているように思える。また、一般論としては漂砂系問題一辺倒であるが、その基本となる「活動帯」つまり流動して堆積・侵食の空間的・時間的な変化を続けているゾーンの把握が不十分と思える。

現在進行中の問題が、人間活動の干渉で起こった汀線の局所的な地形の応答変化であるのか、あるいは海岸線の内陸へ向かう後退という形で起こっている地学的な現象であるかを識別することは、その対処方策の立案に大きな違いをもたらすであろう。(もちろん、人為・自然の要因が複合していることが多いだろうが、階層的に理解する必要がある)。ここでは、まず、砂浜における汀線移動という表面に現れている「侵食」問題を考えるために必要な背景情報を概説しておきたい。

{宮崎平野とその砂浜海岸の形成と維持のメカニズム}

現在考慮している問題に関わる部分でもっとも重要なことであるが、現在我々の目の前に存在する単調な砂浜で縁取られている海岸平野の形成には、過去数万年間の海面の相対的な変動を考えなければならない。その変動には地殻と沖積平野の地盤の沈降と隆起、そして全世界的な気候変動による平均海水面の変動がある。その結果、ある特定の地点で見ていると、相対的な海水面の変動はそれらが複合して起こっていることになる。なお、平野部の固結していない堆積地層(沖積層)の圧縮で起こる地盤沈下はそれを乗せている基盤岩層とは独立して起こる変化であり、局所的な場合があるので、地域全体に及ぶ現象と分けて考える必要がある。

氷期の最盛期で、海水準が現在より100m余り低下していた約18,000年前から現在までの気候変動と海水面変動について、古環境の復元情報が豊かになっていて、現在の沖積平野が出来た道筋が説明できるようになっている。日本の多くの海岸で、その間に、地殻の上下変動を上回る相対的に大きな海水面の上下変動が起こっていたことは重要なポイントである。

約6500~5500年前のヒプシサーマル期に海水面が現在より数m高い状態であったことが、現在の海岸平野という地形を産んでいる。もしも、この高水面の時代が6000年前の海水準のまま固定されていたら、日本の海岸平野は極めて狭いものになったはずで、宮崎平野という広い平坦地はできなかっただろう。6000年前の宮崎の海岸は、山が海に迫り、入り組んだ海岸地形であったから、現在の豊後水道沿岸域のようなリアス海岸が基本的地形であって分断された小さい海岸平地がある状態になっていたはずである。

次に「相対的海水面の変動」がどうやって宮崎平野(そして他の多くの同様な日本の沖積平野)を今の姿にしたか、を考えてみよう。そのヒントは大陸棚の存在である。海岸平野の海側には傾斜が緩やか(宮崎平野では、水深50mの場所が海岸線の沖で10から15キロの位置にあり、1:200~1:300の勾配)に広がっている。すなわち、大陸棚の上部が露出すれば海岸平野は拡大する。そのためには地盤の隆起でも海水準の低下でも、どちらでもよい。3m余りの相対的海水準低下があれば汀線は1キロ近くも沖に移動し、海岸平野が広くなる。

海上保安庁水路部(5万分の1沿岸の海の基本図、海底地形地質調査報告 宮崎、1997年)そして地質調査所(海洋地質図 54 日向灘表層堆積図 1:200,000、2000年)によれば、大陸棚は水深約120mのところで終わり、その先には強い傾斜の陸棚斜面が続いている。平野部の沖で水深50mまでの大陸棚上には「細砂」が堆積していて、その粒径分布のモード(中心)はファイ・スケールで2.7~2.9、径0.1mm付近にある。シルト(泥)や粘土の含有率が低く、粒がよくそろっている(淘汰がよい)堆積状態である。これは次に述べる二つの重要な環境要素を示している。

① 大陸棚の上は河川から流出した泥や粘土が沈殿・堆積しにくい流動環境である
② 砂浜海岸の浅い海底では砂粒の波浪による淘汰が強く働いている

陸上から河川で平野部を経由して海に運ばれる土砂は、流域の地質によって異なる成分(火山性のものなど)を含んでいる粒の大きさが不ぞろいの雑多なものであるが、それがまず河口の外で堆積し、波浪の力で淘汰(比重と粒の大きさによる選択)される。外洋に面した凹凸のない海岸では波浪とそれが産む(海岸に押されてきた海水が岸に平行に流れる)沿岸流、(表層で沖に向けて強く狭い帯状に流れる)離岸流が休みなく働いている。波浪には風波とうねり、そして嵐の時の高波、おまけに稀にではあるが津波がある。

外洋に面した砂浜で、通常の波浪では水深20m程度、嵐の時には水深40mくらいまで砂は流動すると考えられている。そして陸棚の上では潮汐流と海流の影響を受ける場合がある。宮崎平野沖では黒潮の影響を間接的に受けているらしく、海岸に沿った南下する強い海流が出来ているらしい。宮崎平野南部の沖合いで、大陸棚の海底で細砂の堆積ゾーンが北側に比べて大きく広がっているのは、この結果であろう。

海岸に砂粒だけが堆積する(つまり砂浜ができる)のは、他の大きさの成分がその場所に到達しない、あるいは運ばれていてもそこに止まらないからである。礫浜には平野を通らないで急傾斜のまま海に流れ出る河川で運び出される礫が堆積している。しかし、広い平野部を経由した場合は岩や礫成分が海にほとんど運ばれてこない。

海に出た泥と粘土成分は海水中に巻き上げられて浮遊し、流動しやすい。閉鎖的な内湾の干潟や入り江では泥が堆積物の主成分になっているが、強い波浪が常にある外洋の海岸では泥が堆積しない。平野部の前に砂浜海岸が出来るのは、波浪・流動によって砂が絶えず動きながらもそこに残されて止まっているからである。さらに細かく見れば、地域的に卓越する流動の力や方向の差異で砂粒の粒度分布が空間的に微妙に変化・変動している。

宮崎平野は九州山地で西側と北側を囲まれ、冬のモンスーンの影響が小さい。つまり、冬場の時化で東シナ海や日本海の海岸で激しくなる風浪と飛砂による岸に向かう砂の吹き寄せが起こらない。一方、夏の間は太平洋のかなたから到達する長周期の波、うねりの影響が続く。うねりは浅い海岸で往復運動し、沿岸流と離岸流を強める効果があり、それが同時に砂浜の砂の粒度をよく揃える(堆積物、つまり砂の粒度分布の淘汰度が高くなる)。

飛砂は砂浜の前浜部分で乾燥した砂の粒子が内陸に向かって強い風で飛ばされる現象であるが、これが激しいと堆積した砂が盛り上がり、砂丘がよく発達する。宮崎平野では北部の一ツ瀬川の近くで砂丘が相対的に盛り上がっている。その日向住吉、浜松の三角点が標高28mで最高である。

大波(台風の高波で、波高6m程度であろう)の波浪が届かなくなった砂丘部分には植物が成育し、砂丘の地形・地勢が安定する。宮崎の海岸は砂丘の上で植物が育ちやすい多雨・高温の環境であるから、かなり安定しやすいだろう。乾燥地域で植物が育たない砂丘(砂漠など)では内陸の飛砂で砂丘の凹凸が移動する現象が見られる(dune migration)が、宮崎平野でそのようなことは起こらないだろう。

宮崎平野の海岸砂丘では大昔から自然林、そして江戸期頃からの松の植林もあっただろうが、1960年代からは組織的に海岸林を拡大する事業が全国で展開され、宮崎県でも各地で実施されてきた。この事業は、海岸砂丘と前浜のダイナミックな関係を一方的に閉じるような結果をもたらした、と考えられる。

強い台風の高潮が砂丘の最高点まで届いたり、波が超えたりする場合、植生や護岸などの海岸構造物でブロックされていない砂丘は侵食を受けるだろう。侵食された砂は海中に運ばれ、それが後に平常の(平均的な)波浪の営力で前浜の上の方へ運ばれ、飛砂で砂丘が回復する。飛砂の量が侵食に勝っている場合は砂丘が成長を続けるだろう。しかし、このサイクルは10年単位の長い変動となる。

砂丘の海側には平坦面の高まり(バーム)があって、それも砂の垂直移動に関わっている。砂丘までは届かないが平常より強い波浪による侵食とその後の回復でバームの消長サイクルが起こっている。このサイクルは一般に「ビーチサイクル」と呼ばれている季節的あるいは一時的な周期変動となる。宮崎平野の海岸では、台風がこのサイクルのペースメーカーになっている。バームの砂は沖に移動して浅瀬の帯を作るが、これは「バー」と呼ばれている。

遠浅になっている海岸では前浜に届く前に大きな波は繰り返し砕け、エネルギーを失い、バームや砂丘に当たる場合でも破壊力が弱まっている。そのバーの高まりが波を効果的に砕かせるからである。(人工リーフ、と呼ばれる構造物でこのバーの消波効果を真似る試みがなされているが、自然のバーは波の営力に応答して位置と高さが変化する柔軟な構造であり、コンクリートで固定された人工物で真似ができない性質を持っている。人工リーフはサンゴ礁を真似ているとされ、名称も「人工サンゴ礁」といわれているケースを見るが、本当のサンゴ礁の構造は波の当たって砕ける場所でspur and groove(縁溝・縁脚) と呼ばれる消波構造を持っていて、それはサンゴや他の生物が波の力に応答して時間をかけて形成されたものであるから、単純に比べても宮崎の海岸に設置された人工リーフはまさに「まがい物」であり、それによる消波効果があまり期待できない構造になっていると思われる)。

自然海岸ではバームと砂丘の2段構えの砂浜構造が、嵐による大波で起こる砂浜侵食を柔らかく受け流している。大きな波が元で、季節的あるいは数年規模で侵食は起こるが、一方的に海岸線が後退し続けることは考えられない(ただし、平均海水面の高さが変化しないで、堆積物の供給と消失が平衡している場合)。それはバームや砂丘の砂が海側にもたらされる「自然の養浜」が起こるからである。しかし、現在の宮崎の海岸では砂丘部分は植林で固定されていて、それが出来ないような構造に変えられている。(日本経済の大きな問題である、フローに貢献しない塩漬け状態の預金に似ている)

バームまでの侵食で止まっていて、砂丘に侵食が及ばないでいる場合は地学的な意味で海岸侵食を心配する必要はない、しかし、他の要因、たとえば地盤沈下や漂砂系の変動(突堤などの建設)で汀線が陸側に移動し、大波が当たって砂丘が侵食を受けだす場合には浜崖の形成が始まるだろう。そのとき、海岸砂丘の上に保安林があり、それを侵食から守ろうとすると深刻で不毛な自然との戦いの始まりとなる。それは護岸がその前面の堆積条件を変えてしまうからである。日本各地で起こっている「砂浜消失」の多くでは、ここで説明したような流れで、海岸林あるいは陸側の資産などを守る代償として砂浜の消失を招いたと考えられる。
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by beachmollusc | 2008-09-28 14:11 | 評論

小倉ヶ浜、赤岩川の北側

今朝は運動公園がある小倉ヶ浜の中央部から海岸に出て、北側の様子を見てきました。
日曜日でサーファーは多いけれど、浜にはほとんど誰もいないのでミッキーを走らせます。
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階段護岸の周辺には13号台風の波の影響が及んでいなかったようです。
海浜植物に大きな変化は見られませんでした。
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バームの侵食も弱くて、前から出来ていた、バームの陸側の低い場所(海岸に平行な浅い水路が残っていました。
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通常の低気圧の時化と大差なかったことがわかります。
9月9日に撮影したときの様子です。
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by beachmollusc | 2008-09-28 08:38 | 海岸

チョウセンハマグリ集団を失った平戸の根獅子の浜 -2

2007年7月には、4年前の訪問以後に環境が落ち着くか、改善されていて、チョウセンハマグリ集団が復活しているかもしれない、と淡い期待を込めて臨みました。結果は完全にスカ。

道路の舗装整備はガンガン進められていて、車で走り回るのは快適になっていましたが、それに引き換え、砂浜海岸の惨めさが進行していました。貝はチョウセンハマグリだけでなく、どこでも普通にいるオキアサリでさえ、極めて少なくなっていました。近くの別の浜でもナミノコガイが消滅していました。

島の中には棚田が美しい景観を造っていました(この写真だけ2003年5月のもの)。
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根獅子の浜は遠景ではとても綺麗です。大潮の干潮で広く干上がっていました。
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しかし、浜に下りたら再び砂利ジャリの前浜が出迎えてくれました。
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回復どころか、チョウセンハマグリの古い貝殻がますます古くなっていました。
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どうやら、この海岸でチョウセンハマグリの復活劇は当分期待できそうにありません。

根獅子の浜のようなポケットビーチは、砂の供給が少なくても(川が小さい)その中から外海に失われる砂が少ないと考えられています。そして沖から長周期の波浪が海底の砂を湾内に押し込んで運びこみます。そのような環境にあるはずの海岸で砂の侵食が起こっていたように見えるのですが、これは漁港の建設で湾内の堆積パターンが大幅に変化したためかもしれません。または、長崎県で盛んな海砂の採取があったためかもしれません。

ポケットビーチの特徴は、その内部で沿岸流が循環する傾向が強いため、チョウセンハマグリの浮遊幼生が沖に流されずに湾内で発生をとげ、定着する確率が高くなることでしょう。しかし、逆の観点では、離れた別の海岸で生まれた幼生が流れに乗ってやってきて、消えた集団を復活させる可能性は低いだろうと思われます。また、2週間ほどの幼生の浮遊期間中に、ここまで流れ着くようなチャンスも乏しいでしょう。何しろ、九州西岸の砂浜では軒並み集団の消滅が起こっていますので幼生の供給元がありません。周辺海域で貝が消えていないのは、おそらく鹿児島県阿久根市の脇本海岸だけでしょう。

2007年に見た根獅子の浜も4年前と同様に波打ち際ではジャリジャリ、その先では泥っぽい砂浜のままでした。

外海に面した砂浜の泥の成分は、砕け波に巻き上げられ水中に懸濁した状態になり、沖に向かって流れる離岸流に運ばれて前浜から消えるはずです。しかし、ポケットビーチである上に漁港の堤防によって遮蔽されてしまったことで、そのような泥の排出機構が働かなくなっているように見えます。チョウセンハマグリが成育する海岸の基本的な環境要素である、よくそろった細かい綺麗な砂粒の海岸に戻れないまま、貝も戻ってこないのでしょう。

前浜の潮間帯で砂の上にジャリが堆積したままであることは、そこで波が砕ける力が不規則になっていることを物語っています。沖から外洋のうねりが絶え間なく入ってきて、同じような力で砕け続けることが綺麗に粒がそろった細かい砂を堆積させるのです。

根獅子の浜を全面的に泥で覆ったのは何だったのか、と考えをめぐらせて、写真の陸上部を見ていたら、はたと気がつきました。赤茶けた色のシルトであるから、海底で堆積して酸素から遮断され、黒くなってしまう泥とは違っているので、陸上起源に違いない。陸では道路整備の工事が訪問当時も近くで盛んに行われていました。急傾斜の海岸では、大雨の時に陸から海への土砂の流出は避けられません。

1977年の写真と1996年の写真をよく見ると、海岸に沿った道路で幅が拡大され、屈曲部分が直線化されていました。特に根獅子の浜の中央部の岩場では、かなり激しい工事が行われた跡、つまり、古い海岸沿いの道路部分を改修して直線化した様子が見えます。このような工事を浜のすぐ上で行っていた時に、降雨で赤土(酸化鉄を含む粘土)が大量に流出したでしょう。

また、道路だけでなく、学校と思われる場所が1977年の写真の海岸沿いにあったのが1996年では建物が消えて更地になり、少し山側に大きな施設が新設されています。このような工事も土砂の海への流出を招いたかもしれません。

赤土流出は沖縄や奄美で海岸道路と農地整備の工事で散々海を汚し、サンゴ類などの沿岸生物を痛めつけてきました。平戸の場合も、おそらく陸上に赤土の堆積層があったのでしょう。
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by beachmollusc | 2008-09-24 21:54 | 海岸

チョウセンハマグリ集団を失った平戸の根獅子の浜 -1

長崎県はほとんどが沈降性のリアス海岸で囲まれていて、チョウセンハマグリが生息出来るような外海に面した遠浅の砂浜は少ないところです。これまで五島列島の福江島の高浜、長崎半島の高浜、そして平戸の根獅子の浜を調べましたが、生きている貝はほとんど見つからないで、大小の死貝殻がゴロゴロ転がっていたのを見ています。数十年前にはそれぞれの海岸に集団がいた証拠が転がっているのですが、それがどのようにして消えてしまったかを知ることは、資源保全の観点から重要な情報になります。熊本県・天草の白鶴浜や鹿児島県・下甑島の手打湾などの砂浜でも同様にチョウセンハマグリが消滅あるいは消滅寸前です。

海岸の砂浜の状態を過去に遡って空中写真で読み取り、そして現地を詳しく見て回って、どのような環境変化が起こったかを見極めることで、この問題の手がかりを得たいと考えました。その初回として平戸の根獅子の浜を取り上げます。この浜には2003年5月と2007年7月に訪れました。

2003年の訪問時に撮影した写真をパノラマ風にアレンジして、根獅子の浜とそのすぐ北にある人津久海岸の様子を示します。1996年の海上保安庁の空中写真がオンラインにあったので、それを借用して海岸部分を切り取って一緒にして、地形がわかるようにしました。
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この時の海岸の状況は、1996年の写真と大差なかったように思われます。
根獅子の浜の前浜には砂利が多く堆積していたし、漁港の陰になった浜では泥が堆積していました。
1977年に国土地理院が撮影した空中写真もオンラインで見ることが出来ますので、それを1996年の写真と同じ縮尺にして、方位も合わせて並べてみました。
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この約20年間の変化では、漁港の防波堤の完成がもっとも重要でしょう。

1977年の写真では砂利浜でなくて砂浜が広がっていたようです。1996年には浜の中央部の付近で砂に埋もれていた岩礁が露出した、つまり砂の堆積層が薄くなったように見えます。湾内の砂の色が黒っぽくなっているのは、泥が堆積しているからです。干上がった部分は泥っぽくなっていました。チョウセンハマグリは泥(シルトと粘土)の堆積したところを嫌います。

人津久海岸では白い綺麗な砂浜がそのままで2003年にも維持されてきているようでした。したがって、元は同じように白い砂浜だった根獅子の浜で、堆積環境が大きく変化したことがわかります。それに強い影響をおよぼしたのが漁港とその堤防建設だったことは確かでしょう。漁港建設に伴った浚渫土砂の影響が残っていたのかもしれません。
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by beachmollusc | 2008-09-24 21:34 | 海岸

砂浜における拡大造林と護岸建設

小倉ヶ浜の南部には吉野川という小さい川が流れ出ている。その南側にはサーファー用の駐車場などの施設があり、休日には路上にまでサーファーの車があふれている。

小倉ヶ浜の砂浜で侵食問題が起こっていないのは幸いであるが、これは海水準が安定していることに負っていると思われる。

この海岸のすぐ北にある日向市の細島港には明治時代に設置された験潮所があって、海水面の変動を1世紀前まで、オンライン情報で遡ってみることが出来る。
日本列島沿岸の年平均潮位=グラフ 海域Ⅵ
http://cais.gsi.go.jp/cmdc/center/graph/kaiiki6.html
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小さな変動を繰り返しているが、地盤沈下や隆起が進んでいるようには見えない。

国土地理院の1974年撮影空中写真と海上保安庁撮影の1993年の空中写真を見比べると、その間に海岸で起こった大きな変化を知ることが出来る。
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北側では赤岩川の河口部にゴルフ場が出来ている。
南側では海岸利用者のための駐車場が出来て、漁港の防波堤ができている。

1974年の写真で見てわかるが、砂浜の前浜部分では松林がすでに広がっている。その植栽域の前面には、吉野川河口の内側からはじまった護岸が松林の途中まで出来ていたが、それが1993年までに少し北まで延長されたように見える。

この松林の内陸側には国道10号線に一部が接している海岸林が昔からあった。戦後すぐに米軍が撮影した空中写真のアーカイブを見てそれがわかる。
http://archive.gsi.go.jp/airphoto/index.jsp
60年前の米軍写真(USA-M812-32)では、赤岩川が現在の拡大された松林の陸側に流路を持っていて、吉野川とほぼ同じ場所に河口があった。余計な松林がなかった時代の砂浜は広々としていた。

1962年に撮影された国土地理院の空中写真(MKU-6211-C5B-10)を見ると、赤岩川が砂浜部分に出てから分流して、河口を3箇所につくり、そのうちの一つが吉野川と合流していた。同じ写真で、砂浜での拡大植林の準備のためか、区画の輪郭が出来ている。

1967年撮影の写真(MKU678X-C4-4)では、1974年の状態に近い姿が見えるが、モノクロでオンラインで提供されている写真の解像度が低いため、詳細はよく見えない。

もし小倉ヶ浜の地盤が沈下を続けていたら、この松林の拡大の結果も重なって、海側の護岸が汀線に近くなり、嵐の時の波浪で基盤侵食を受け、日本全国で見られている護岸前面の砂浜消失のスパイラルが起こっていたかもしれない。

現実には、汀線から護岸までの遠浅の砂浜が嵐の波浪を十分に弱めてくれたので、侵食が問題にならなかったのであろう。今回、2008年9月19日に接近した台風の波浪はこの護岸に到達していなかったようである。
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護岸に付けられたプレートの年度の表示が読み取れなくなっているが、かつて災害復旧工事がこの護岸で行われたらしい。ということは、松林の裾の侵食か既存護岸の損壊をもたらした極めて強い波が当たることもあった、と解釈できる。

護岸の周囲を見ると、北側では頻繁に海水が届いていて、海岸植生の成育が難しそうである。しかし、その南側から吉野川河口までにかけては、砂が堆積している上に植物が生い茂る状態が続いている。実際、護岸の南カーブはコンクリート部分が植物に覆われて見えなくなっている。足元も砂で埋もれて、上側しか出ていないのだろう。

そもそも、この松林を砂浜の上で汀線に向けて拡大植林したのはなぜだったのだろう。その内側には照葉樹の見事な海岸林が昔からあるので、写真で見られるマツクイムシ被害も気にしないでよさそうである。

広々とした砂浜をわざわざ半分くらいに幅をせばめ、おまけに植林した場所の海側に護岸を建設している有様は無様である。赤岩川の北側でも同様に「拡大造林」と護岸の建設をやっていることはすでに指摘したようにアカウミガメの産卵場所を奪っている。

日本中の海岸を探して回っても、この海岸より優れた自然景観に恵まれた砂浜海岸は少ない。それを無意味で、潜在的には有害な公共工事であえてスポイルしてしまった犯罪的行為は誰の責任であろうか。地元住民が望んでやったこととは到底考えられない。

この吉野川と赤岩川の河口の前の砂浜潮間帯では、かつてチョウセンハマグリの稚貝が湧いていた。小倉ヶ浜のハマグリ資源を養っていた、もっとも重要な場所であったことは確かだろう。1950年代に行われた調査でそれが知られたことで、赤岩川の河口部分は漁業資源を守る制度である「保護水面」に指定された。

この調査時の河口は、茂野邦彦 (1955) 日本水産学会誌 21, 218-225. チョウセンハマグリの生態について、という報告で図示されたように二つの川が合流していた。

図のSt2とSt3で稚貝が高密度に生息していた背景には、河川が運んでいた栄養素があり、それをもとにして砂浜の砂粒に付着して繁茂する微細な藻類がハマグリ稚貝の餌となったに違いない。

潮が引くと藻類が砂浜の表層に出てきて光合成をし、砂が茶色や緑色に見えるような場所が出来るが、それが餌となる藻類である。現在でも、小規模ながら浜の一部でそれが出来るので、ハマグリ資源が残っているのだろう。遠浅で、その面積が広いことも大切な条件である。
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赤岩川の平野部を流れていた流路は、1974年当時は自然状態で蛇行していたが、1993年までに直線化され、三面張りの護岸にされている。改修後には、出水時には急流が河口に一気に出るようになったはずである。また、源流域である山地では人工林化が進んで、最近では保水力を失っているだろう。

山地から平野までゆったりと流れ、陸から海岸へ栄養を供給していた赤岩川の環境を大幅に変えた結果、日向名物のハマグリ資源の激減と不安定な変動を招いてしまったものと想像される。
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by beachmollusc | 2008-09-23 11:36 | 評論

台風通過後の小倉ヶ浜

13号台風は日向市に関しては大雨の置き土産だけでした。その雨で増水した川も次第に平常時の流れに近くなったので、今朝は小倉ヶ浜の様子を見るために、浜と日向市街を結ぶ新しく開通した道路を通って、サーファーがウヨウヨしている南側を見てきました。
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吉野川の流路が、増水で直線化していました。すでに河口部では長靴で渡れる深さまで浅くなっていました。
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台風前にはバーム形成が進んでいたところが、駆け上がる波の力でならされて、平坦な砂浜に変身、というよりも平常状態に戻りました。
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波打ち際にはスナガニたちが大忙しです。
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今年はずっと穏やかだったので、吉野川が蛇行していました。それの名残の直線化した前の流路が海岸奥の波浪の力が十分に届かなかった部分に残っていました。

風が弱かったので、今回の波浪はほとんどうねりだけで、砕けた浪が平坦な砂浜を駆け上り、デコボコを均しただけに終わったようでした。
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by beachmollusc | 2008-09-23 08:42 | 海岸

サンゴが記録した大異変

神奈川県、三浦半島の油壺には日本で最初に設けられた臨海実験所がある。筆者は1964年に卒業論文を開始、1970年に学位論文の研究を終えるまでの足掛け7年間、この三崎臨海実験所に巣食って油壺湾のヌッシーとなっていた。

研究テーマであった汚損付着生物、特にホヤ類の生態に取り組むかたわら、熱帯のサンゴ礁にあこがれて、パラオの海洋調査探検に出かけたりした。足元の油壺沿岸にも様々なイシサンゴ類が生息していたが、中でも一番身近だったのが、湾内の潮間帯で岩礁にへばりついて泥をかぶっていたキクメイシモドキであった。

普通の人はイシサンゴとは熱帯の綺麗な海の生き物であると思い込んでいるだろうが、キクメイシモドキは一味違っている。何しろ瀬戸内海に住んでいる唯一のイシサンゴ類である。たとえば広島県の豊田郡、大崎上島町立東野小学校のサイトでは「しおさい科学館」というHPで付近の岩礁の沿岸生物を調べた学習成果を掲載、発表している。 
大串の海の生き物、 鍋島の海の生き物
http://www.town.osakikamijima.hiroshima.jp/higashino-es/kagakukan.htm
この中にキクメイシモドキの写真が出ているのを見て、まだ生き残りがいたことを知ってほっとした。

油壺には実験所だけでなく、日本の基準海水準(海面の高さ)を観測している験潮所がある。

<験潮場の歴史は古く1872年(明治5)民部省が利根川河口に銚子量水標を設置し翌年、隅田川河口の霊岸島、つづいて1874年(明治7)には江戸川河口の堀江に設置されました。陸地測量部の発足後、1891年(明治24)以降は高神(千葉)、鮎川(宮城)、串本(和歌山)、細島(宮崎)、深掘(長崎)、外浦(島根)、輪島(石川)、岩崎(青森)、小樽(北海道のちに忍路)、花咲(北海道)の10ヶ所に設置されました。後年、海洋気象台に移管されたものもあります。

霊岸島量水標の潮位記録は「水準原点」を建設した際には東京湾における平均海面を示しましたが淡水の影響などがあり理想的なものではなかったので1894年(明治27)に千葉県高神村(犬吠崎南方)から移設された油壺験潮場の潮位記録によって水準原点の高さを検証することになりました。国土地理院では油壺と水準原点との間を隔年ごとに一等水準測量を行っています。[国土地理院:測量・地図百年史 1970] >

http://uenishi01k.at.infoseek.co.jp/s229-07-10suijyungenten.html
このサイトには移設前の油壺験潮場の写真がある。水準原点にしても、それを乗せている地盤が上下(水平方向も!)変動しているから、絶対基準は存在しない。そのため、最近では人工衛星を使って宇宙から地面の垂直・水平変動を監視している。

理想的な標準を求めて移設されたはずの油壺の海岸では、1923年9月に関東大震災の地震地盤隆起を迎える運命であった。

年平均潮位記録が「日本列島沿岸の年平均潮位=グラフ」サイトにあるので、引用する。
http://cais.gsi.go.jp/cmdc/center/graph/kaiiki3.html
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この地震で地盤が約1.4m隆起したので地震後の潮位(年平均値)がその分低下している。

房総半島の先端部や伊豆半島などでも地盤が隆起したことが報告されているが、この地震に関する験潮記録としてはここだけとなった。また、隆起した後、地盤がゆっくりと降下して平均潮位が元の方に向かって上昇したことは注目すべき現象である。

土佐湾をゆるがせた1946年の南海大地震で、室戸岬などが隆起し、高知や須崎などでは沈降したことを前に紹介したが、高知でも関東地震と同じような地震前後の地盤の変動パターンが見られた。

大陸塊に接するプレート境界で起こる巨大地震の特徴であろうが、プレートのスラブが沈み込む前面で、隆起するゾーンと沈降するゾーンが帯状に?あり、それぞれで、地震後に元の方に向かってゆっくりと回復する。しかし、それが元の高さになる前に次の大変動が起こって、時代が進むと、変化が蓄積、積算されて隆起・沈降の差が開いてゆく。これが海岸地形の変化や砂浜汀線の移動と深く関係する。この点で、宮崎平野沿岸部の場合はどうなっているのだろうか。

日本の潮間帯生物の分布と生態、環境の関係を調べるために、1930年に来日したTorsten Gislen が、震災後7年経過した油壺の実験所周辺の岩礁生物を詳しく観察・記録している。その報告が実験所の図書室にあったので、40年前に青焼きコピーしたのを手元に保存していた。それを久しぶりに取り出してみたら、キクメイシモドキのところに栞が残っていた。
A Survey of the Marine Associations in the Misaki District with Notes concerning Their Environmental Conditions. J. Fac. Sci. Imp. Univers. Sect. 4, Vol. 2, Part 4, pp. 389-444. Tokyo 1931.

Gislen(1893-1954)は動物生態学者でスウエーデンの生態学の基礎を築いた人物の一人でした。

Linné on line という、リンネが教授だったウプサラ大学のサイトを見ると、同国での生態学の曙時代のエピソードが書かれています。
<On this website Uppsala University presents research relating to the work of one of the most famous professors throughout its history, namely Carl Linnaeus (Carl von Linné) (1707 - 1778).>
Linnaeus and Ecology - The ascent of ecology in Sweden
Debate between two schools of ecology
http://www.linnaeus.uu.se/online/eco/debatt.html

この記事に出てくるSven Ekman (Sweden 1876-1964) は海洋生物地理学の開祖でした。1935年にスウエーデン語で書いた本を1953 に改訂し、英語で Zoogeography of the Seaという本を出版して世界的に有名になりました。それは環境面から全世界の海洋生物地理区を区分した世界で初めての仕事でした。

アメリカとイギリスでは1960年代以降、潮間帯岩礁の生物の帯状分布の記載、そしてその形成の生態的要因や構成生物間の生態的な関係など、盛んに研究されて大いに発展しました。その基礎を造った研究をGislenがさきがけてやったわけです。
The Study of Vertical Zonation on Rocky Intertidal Shores—A Historical Perspective by Keith R. Benson
Integrative and Comparative Biology Volume 42, Number 4 Pp. 776-779
http://icb.oxfordjournals.org/cgi/reprint/42/4/776

アメリカの植物生態学では「遷移」という概念が学問の発展初期にClementsらによって提唱され、それが固定観念となり、早くから日本にも輸入されています。高校の生物の教科書には必ず記述されている概念の一つですが、その「決定論」的な論理が現実の現象を合理的に説明できない(頭の中だけでの世界であって、見かけ上の説明にすぎない)ので、日本でもゆがんだ理解を招いています。これに対してGislen達は現場の生態現象を綿密に調べて、その問題を是正しようとしました。多様な現象をひとくくりにしてしまうと間違ったイメージを作ってしまいます。

生態学の分野では「法則性」を見つけることが難しいのですが、教科書では必ずそれを求めます。遷移と同様に「生物多様性」も一人歩きしている概念の一つですが、理論が成熟する前に政治の領域で採用された初期の「決定論」のイメージが、刷り込み教育が厳しい日本では大きな混乱を招いています。

世界各国で臨海実験所が設置された背景には、空論を戦わす前に、研究者が現場に密着して観察し、具体的に研究情報を豊かにする必要があったのです。日本でも理学系と水産系の臨海実験所が全国で多数、各地の大学の付属施設として設置され、学生実習や教員の研究の場となってきました。その草分けとして油壺に三崎実験所が出来たのは世界的に見ても早かったのです。やとわれガイジン学者として東京帝国大学に来ていた棘皮動物の専門家、デーダーラインあたりが日本人の教授達を刺激したようです。
http://www.mmbs.s.u-tokyo.ac.jp/history/history.html

油壺湾上空から見た三崎実験所周辺の全体的な様子を示すために借用しました。
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本論に戻って、Gislenの論文からキクメイシモドキの分布図をスキャンした画像を示す。
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黒い丸が地震で隆起したために陸上で死滅していたサンゴの群体を示している。

GislenはGoniastrea(カメノコウキクメイシ) 属の一種と査定したが、これはOulastrea crispata キクメイシモドキと見て間違いないだろう。 湾の奥まで分布していて主に潮間帯に生息していたから、地盤隆起で死んだわけである。この周辺で他のイシサンゴ類各種、イボサンゴやキクメイシなどは、亜潮間帯でやや深い、海藻が少ない北向き斜面を中心に分布していた。

油壺湾と枝分かれした諸磯湾は名向崎(その崖上にライシャワー元駐日アメリカ大使の別荘があったはず)で交わるが、相模湾へ出るあたりも含め、二つの湾内に広く分布していたことが記録されている。

弁天下の突端の手前に(旧)三崎実験所があり、そのすぐ下の岩礁海岸でGislenは1930年に生きているキクメイシモドキ1群体を観察した(十文字マーク)。1929年にYoshiiという人が油壺湾の外側(荒井浜海水浴場の近く)で見つけたのと、1930年に実験所の採集人で有名人の熊さん(オキナエビスという巻貝を採集した際のエピソードが面白い)が見つけた油壺湾の北側湾口部の群体は、その後に確認されなかった、と報告されている。

要するに、震災前にはあたり一面に普通に生息していたキクメイシモドキが震災で壊滅してから6,7年後になってようやくポツポツと見かけられるようになった、ということであった。

Gislen はこのほかにもフジツボやカキ類などが、岩礁に固着したままで死滅していた様子を見ていたので、論文にEffects of the Kwanto earthquakeという1章を設けて詳しく記述している。岩礁の潮間帯生物を太平洋の東西で比較するため、アメリカのカリフォルニア沿岸でも同様な研究を行って、アメリカでも大きな地震があるが、海岸で地盤隆起などは見ていないことを述べている。(これはプレートが互いにぶつかり合っている日本と湧き上がって離れているアメリカ西岸の違いを意味するだろう)。

油壺の臨海実験所では、近年は公開実習を行っているということを知って、時代の移り変わりに驚ろくばかりである。

この実験所の周辺について、最近の様子は下のブログサイトの写真を見てもらいたい。
海の自然観察会を基盤とする沿岸環境保全の取組み
http://blog.canpan.info/kansatsu/

キクメイシモドキは、そのユニークな生態分布のせいで、大震災でひどい眼にあってしまったが、おかげで地盤変動の(生き?)証人となってくれた。40年前の油壺湾では、それほど多くはなかったが、普通に見られるものだった。(ただし、油壺湾の奥はヨットハーバーとなって汚染されていたので見に行っていない。湾の奥にはミドリシャミセンガイという生きた化石がいたという話あり。)

機会を作ってこの古い友達に再会してみたくなった今日この頃である。
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by beachmollusc | 2008-09-22 01:52 | 海岸

日向灘沿岸域の海底堆積物の分布状況

2000年に出版された地質調査所発行の海洋地質図54:日向灘表層堆積図が入手できた。

説明書によると、これは1983年に地質調査船「白嶺丸」(1820トン)によって実施された調査航海をもとに、その時に採取された表層堆積物などの採取試料について分析し、結果を図に示したものである。大陸棚の上の部分で水深20mより浅いところは採取試料がないが、この図と堆積物の詳細な解析結果からいろいろな情報が抽出できる。著者は海洋地質部の池原研である。

この図から大淀川と一ツ瀬川の間の部分を中心にしてクロップし、説明を加えてみた。
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一ツ瀬川と大淀川の間の沖で、水深30mより浅い部分に露岩(岩盤がむき出し)があちこちにあったことは面白い。堆積物で埋められずに残った高まりであるが、基盤岩の地形が複雑であること、そして堆積速度が遅いことを物語っている。氷期に100mくらいまでの海底が陸地になっていた時代の大淀川が流れて刻んだ峡谷が堆積物で埋められずに残っているように見える。

砂浜とその周辺の堆積物の動態に関する部分について、私の解釈も交えて説明したい。なお、当初の調査目的の一つは海底堆積物の資源的評価であったが、その結果として別途報告されている文献の引用によれば、砂粒として軽石や火山ガラスなどの火山起源物質に富み、「細骨材として適さない」という評価があった。この情報から、結果的に宮崎県の海岸近くの海砂採取が行われてこなかった理由が判明した。

図を見ると一目瞭然であるが、宮崎平野の沿岸に出来た大陸棚の上にはほぼ全面的に細かい砂が堆積している。その粒子はファイ・スケールで3から4、すなわち0.125mmから0.063mmの粒子が主成分である。特に浅いゾーンではシルト〔泥〕の含量が低く、淘汰がよいのが特徴である。その水深分布特性のグラフを引用する。
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浅い部分(といっても30mより深い)では中央粒径が0.1mmくらいであった。
それより深い陸棚の部分では中央粒径がやや粗くなっている場所があることが面白い。
このパターンについてはいろいろな想像が出来そうである。

宮崎海岸の前浜ではおそらく細砂で0.2mm付近が中央値であろう(確認が必要)。
場所によってそれよりやや粗めかもしれない。

水深40mあたりまでは嵐の表層の波浪の影響が届くが、通常は20mより深い海底では流れが弱くて泥が堆積しやすい。しかし、この海域で泥(シルト)が堆積していたのは陸棚斜面よりも下の水深200m以深であった。つまり、この日向灘の大陸棚の上にはかなり強い流れがあるということである。深海カメラによる海底映像から、場所によるが、陸棚の縁近くまで砂漣(砂の表面の浪模様)が見られたことは、海底で特に流れが強い場所もあることを示している。

説明書では、豊後水道から九州の陸よりに南下する海流が、黒潮の変動周期にあわせて張り出して来る現象を指摘している。おそらく黒潮は水深100mくらいまで、陸棚の上の流れに間接的に影響しているだろう。黒潮はこの付近で四国に向けたべろを突き出す癖があるらしい。

このような堆積環境であり、水深約900m地点(青島の東沖の深まり)で堆積面から2mあまり下まで採取されたコアサンプルの解析結果によれば、(アカホヤと呼ばれる火山灰層で年代が判明しているところから上の部分で)厚さ約1mの堆積層が6300年間で形成されたことが推定された。過去1000年あたり18.5cmの堆積速度となるので、陸棚斜面の下のところが泥で埋まる速度はゆっくりである。

陸棚の上面部、つまり100mよりも浅い部分について考えると、約2万年前に陸地になっていて、その後の海進で水没したが、浅海性の砂が堆積し続けていたことになる。この海進には地盤の隆起も含まれていることが、陸棚斜面のはじまる水深が約100~110mであることと整合する。世界平均の海水準上昇が130mとすれば、20~30mが地殻変動による上昇であろう。(地盤が動かなかったら、斜面は130mくらいから傾斜が急になりだすはずであるから)

過去5000年間の海面変動が小さかった間に岸に程近い海底でどのくらい砂が積もったかが推定できれば面白いのであるが、コアサンプル調査データは浅海部を欠いている。もっとも浅い部分では時代を特定するための火山灰層が出てこないはずなので、年代の特定が難しいだろう。コアサンプルで一番浅い場所は水深150mあまり、約40センチまでのコアで、muddy very fine sandとなっていた。陸棚の上のコアサンプルがなかったのが残念である。ただし、この調査で用いられた重力だけでコアを掘りぬく方法では、泥の堆積したところしか調査が出来ない。

結論であるが、この図を見る前に想像していたイメージを大幅に修正しなければならない。つまり、40~50m以深の海底では河川から流れ出たシルト(泥)が静かに堆積し続けているだろうと思ったことは完全に違っていた。100mより浅い陸棚の上では泥がたまらないような速さの海底部分の流れがあることになる。このように、砂だけ堆積していたことから、陸棚の海へ向かって広がる速度は小さかっただろう。もし地盤が隆起を続けていなかったら、傾斜の強い狭い陸棚になっていたかもしれない。
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by beachmollusc | 2008-09-20 17:03 | 海岸

宮城県石巻市横須賀海岸の砂浜侵食

■長面海水浴場を閉鎖 2006.06.29
砂浜の浸食深刻、保安林も危機
石巻市 原因不明 再開見通し立たず/
http://www.sanriku-kahoku.com/news/2006_06/i/060629i-nagatura.html

< 浸食による地形の変化が深刻化している石巻市河北地区の横須賀海岸で、長面海水浴場の砂浜の浸食が一段と進み、市は二十八日までに「海水浴客の安全が脅かされる恐れがある」と判断、海水浴場を閉鎖することを決めた。駐車場や保安林の一部までもが波に削られて危険な状態になっているためで、今後さらに進むと民家や水田に海水が流入する可能性も大きい。今年二月、市や県、東北大による研究会が発足して調査が始まっているが、浸食拡大の原因はまだ分からず、海水浴場が来シーズン以降、再開できるかどうかの見通しも立っていない。

 長面海水浴場は延長約八百メートル。六年ほど前から浸食が激しくなったといい、海水浴シーズンを前に市河北総合支所などが調査した結果、駐車場、保安林の一部が波で浸食され、満潮時には砂浜が消えてしまう状態と分かった。

 保安林の目の前はなぎさになり、大きな低気圧や台風が接近すれば、保安林が倒れ、民家や水田に海水が流れ込む危険性も大きいという。

 海岸を管理する県石巻土木事務所は昨年十二月から今年三月にかけて、北上川河口右岸から海水浴場まで約六百メートルに砕石を敷いて浸食が進まないようにする応急工事を実施。はだしやビーチサンダルで歩ける状態ではなくなっていた。

 河北町漁協の坂下健組合長は「昭和五十年代までは、なぎさから松原まで百メートル以上も乾いた砂浜が続いていた」と振り返る一方、「砂が海へ流出した結果、湾は二メートルぐらい浅くなり、波が立ちやすい状態になった。漁をするにも危険な状態だ」と指摘する。

 砂浜が消える原因について坂下組合長は「北上川河口周辺で二十年ほど前、砂の採取が行われたことがあった。それが原因とは断定できないが、初めは小さな環境の変化でも、次第に大きな変化につながるケースもある」とみている。

 関係行政機関などが今年二月、「横須賀海岸侵食対策研究会」(会長・田中仁東北大教授、十五人)を組織。赤く着色した砂を投入して砂の移動量や方向を調べ、撮影年次の違う航空写真を使って浸食の変化を分析しているが、詳しい原因はまだ分かっていない。七月下旬の会合で浸食進行への対応をあらためて検討する。

 長面海水浴場は毎年、北上川河口右岸に広がる風光明美な横須賀海岸に開設され、期間中は一万人前後が利用してきた。昨シーズンは砂浜がわずかに残った状態で開設、六千五百人が訪れた。>


■横須賀海岸を本格改修 2007.01.07
石巻市・長面の低気圧被災
国が補助金、4月着工/
http://www.sanriku-kahoku.com/news/2007_01/i/070107i-kaisyu.html

< 県石巻土木事務所は、昨年十月六日の低気圧で壊滅的な被害を受けた石巻市長面の横須賀海岸の本格的な改修に乗り出す。国が災害復旧費として二億円を補助し、県独自の事業費を加えて、四月から工事を開始する。

 海岸の本格的な改修を前に、工事用車両が入る道路整備が急ピッチで行われている。海岸は脱衣所などの海水浴場施設の周辺まで浸食が進んでおり、土木事務所は警戒を強めている。

 横須賀海岸は、昨年十月の低気圧の被害を受ける前から海岸の浸食が進み、土木事務所は二〇〇五年十二月から海岸に岩石を並べ、砂が海に流出するのを防ぐ応急工事を進めていた。工事が完成に近づいた段階で、台風並みに発達した低気圧の被害に遭った。>


横須賀海岸侵食対策研究会のHPと関連情報(検討会の資料)に詳しい経過情報と周辺で行われた調査結果、過去の空中写真が掲載されている。
http://www.pref.miyagi.jp/kasen/kg_yokosukakenkyukai.html
研究会資料
http://www.pref.miyagi.jp/kasen/kaigan/yokosuka_ken1shi.pdf
http://www.pref.miyagi.jp/kasen/kaigan/yokosuka_ken2shi.pdf
第二回の検討会では鮎川港の潮位変化について1995年以降のデータを調べ、特に変化がないとして侵食を起こした原因とは認めていない。
このデータは、地元住民から出された「潮位が上がっているような気がする」という意見を受けていたように見える。

検討委員会はごく最近の海水準変化だけを見ているが、もっと長期の変動傾向を見ておくべきであった。{日本列島沿岸の年平均潮位=グラフ 海域Ⅱ}の鮎川港の年平均海水面の上昇がグラフで示されている。これから、最近数十年間で20センチ以上の海水面上昇が認められ、しかも最近の上昇傾向が明瞭である。
http://cais.gsi.go.jp/cmdc/center/graph/ayukawag.gif
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地盤沈下に換算して示した図。
http://cais.gsi.go.jp/cmdc/center/touhoku/touhoku.html#ayukawa
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この砂浜海岸はspitと呼ばれる地形であり、河口や潟湖の出口に形成されるものである。陸地と無関係に、砂が寄せられて盛り上がった一種の砂丘であるが、砂浜の勾配が緩やかになっているはずである。

空中写真で見ると、この海岸の保安林から汀線までの距離にゆとりが乏しい、浜の北側で汀線に向けて植栽し、その前面に護岸を建設したことが背景にあるようだ。

そして、地盤の上下変動は傾斜が緩やかな砂浜海岸の汀線に大きく影響すると思われる。

もし前浜の傾斜が1:100であれば、20cmの地盤沈下は平均位置での汀線の水平距離に換算して20mになる。干潮時の前浜の距離が100mだったら20m後退するはずである。現地の傾斜はおそらくもっと緩やかであろう。乾いた砂浜の{幅}が狭くなってきたのは当然である。

海水面の上昇で汀線がゆっくりと陸側に移動し、大きい波浪が当たりやすくなっていたところに洪水や強い台風の波浪で砂浜侵食の引き金が引かれたと思われる。2002年に連発で来た台風が特に効いたのであろうが、沖に砂が移動して出来たサンドバーが陸側にビーチサイクルで戻る前に護岸を強化して、前浜の侵食地形を固定化し、さらに後の台風で悪化させたように思われる。

漁協の組合長が指摘していて、委員会資料でも明らかであるが、浜の砂は移動して堆積パターンが空間的に変化している。ここの委員会の委員たちはビーチサイクルという概念を持っていたのであろうか。地域的に地盤が沈下し、海水面の上昇が続いている砂浜海岸で前浜を維持したければ、セットバックしかないだろう。

傾斜が緩くて広い砂浜は大波を砕けさせる効果が大きく、海岸の最良の「防波構造」である。しかし、そこに護岸などの大波が当たって砕けるような硬い構造物があれば、嵐の時に洗掘現象が起きて、砂が沖に移動する。

護岸が国の援助でさらに強化されるようである。離岸堤を使ってトンボロ効果で砂を繋ぎとめても、これまでのような地盤沈下(海面上昇)が続けば、砂浜は構造物ごと沈下を続けるであろう。

{追記}

「変化する日本の海岸」、小池一之・太田陽子〔編〕、古今書院〔1996〕、とかその他の海岸について書かれた本をおさらいしてみた。

自分が頭の中で見ていることと、一般的に言われていることが整合していない、つまり疑問に感じていることの中で一番大きな問題は、河川から海へ流れてくる土砂が減れば海岸で侵食が起こる、という概念の妥当性である。

ここで取り上げた横須賀海岸で起こったことは、沿岸流による沿岸漂砂に影響を与えるような構造物が存在しないこと、つまり砂浜侵食問題を極めて複雑にしている要素を考慮しないでよさそうなことで、問題の本質と考えている地盤と海水面の高さの変動の影響がストレートに出ていたと思われる。

横須賀・長面海岸は北上川の河口にある砂州として出来た堆積地形であるから、川からここに運ばれている土砂がどのようになっていたか、という点も重要であろう。これは検討委員会でも取り上げられているが、流出土砂の実態がわからないためにスルーしている。ただし、河床から土砂を浚渫している量については経年変化などを示しているが、それを侵食に関連付けることはできなかった。

この場所ではかなり綿密な調査をしているが、重要な見落としとして、すでに指摘した海水面の長期変動(地盤沈下)のほかに、海底で砂でなく泥が堆積している水深の情報を面的に調べていないことがある。

河川から海に運ばれる土砂には大小の石塊から粗い砂、細かい粒、そして粘土やシルト、コロイドまでがあるだろう。通常の流量で運ばれるものは相対的に重要ではないかもしれないし、大きい方の粒子は特に動かないと考えられる。つまり、洪水で一気に流されている土砂の実態が重要である。

洪水で運ばれて河口周囲に堆積した土砂の状態については情報が乏しい。しかし、海底の堆積物をコアとしてくりぬいて、堆積の履歴を調べることは行われている。隆起した平野の部分でも、土質調査としてボーリングコアのデータが無数にあり、その中に見られる「海成層」という海底で堆積した部分の履歴から、堆積時の環境が推定でき、時代も年代測定で推定されている。

現在の状態で、平野の河口から沖側の浅い海底で堆積物がどのようになっているかは大体想像できるが、実際の表面堆積物の採取やボーリング調査のデータを見ないと、地域特性による部分がわからない。横須賀海岸は平野ではなくて、沖側がかなり急に深くなる谷になっているようなので、その影響を考える、つまり海岸の流動砂が深い方へ移動したまま戻れなくなる程度を推定する必要がある。それを知るためには、海岸に直角に、岸から沖に向けて一定水深ごとにボーリングコアをとって調べるべきである。まず表面で泥しか堆積していない深さを調べ、そしてその下に嵐の時に運ばれていた砂があるかどうかをさらに沖までチェックするのである。

以上のような調査結果が出れば、川から出てきた土砂が海岸でどのような運命を辿っているかを推定できるはずである。これには海洋学、堆積学の専門家の助力を求めなければならない。

次に横須賀海岸の問題から離れ、一般の平野部の海岸に眼を移してみたい。

ほとんどの平野の河川では、大きな川の本流はともかく、その支流や中小河川では河川改修が極めて積極的に行われてきている。その目的は大雨の洪水時に増水した分をすばやく海に流すことと考えられる。つまり、これによって過去と現在の河川の土砂流出特性は変化してしまっただろう。そして、細かい土砂、すなわち海岸まで運ばれて海で堆積する分は、他の条件に変化がなければ、より流出しやすくなっているはずである。

洪水時の流出土砂の供給源は流域の斜面崩壊が重要であろうが、これは戦後の山林の荒廃で悪化していたのがその後人工林の拡大で緩和されたようである。しかし、最近では奥山で人工林の皆伐が進んでいて、その後のケアも杜撰であり、斜面崩壊や土砂崩れは激化しているように思われる。つまり、全体的に土砂の海へ向けての流出は増大傾向にあるだろう。

ダムの建設で土砂がそれにトラップされ、さらに河川で河床に土砂が堆積し、かさ上げされるので洪水の危険が増しているといわれる。さて、これらは海に流れ出るべき細かい土砂成分を本当に減少させているのだろうか。

斜面の傾斜が急な部分が終わってから、平野部の海岸で川から海に流れ出ているものは、粗い砂か、それよりも細かい成分が圧倒的な量を占めているだろう。陸上部分で扇状地となって、粗い土砂は堆積して、残りが引き続き海に流れて行くだろう。データがないので憶測であるが、海に到達できるのはシルトと粘土粒子がもっとも多いのではないだろうか。ダムや河床に溜まっている土砂のほとんどは流されなかったので留まっているのだろう。洪水の時にダムから放水されている水のなかに細かい土砂の粒子は含まれていない、つまりその水は澄んでいるだろうか。

以上は憶測と推測であるが、一般的に言われている単純な説明:海岸の砂の「供給の減少→砂浜侵食」説が堆積の実態調査から検証されるべきであることを指摘しておきたい。

{追記、9月26日}

鮎川験潮所のデータがしばしば変調をきたし、設定のやり直しを繰り返しているが、これは地震による地盤の変化のせいだろう。

まずこの験潮所が開設されたすぐ後に、1897年2月22日のM7.4の宮城県沖地震とマッチした海面変化を記録している。これは小さい海水準上昇(地盤沈下)である。

1936年(昭和11年)11月3日に発生した宮城県沖の地震:深さ61km、M7.4。これは験潮記録をばっちり動かしていた。ただし、地震後の数年間で40cmあまりの地盤の隆起である。この地震で狂った基準を設定しなおしたらしいが、その後は海面上昇(地盤の沈降)が続いている。

1978(昭和53)年6月12日、宮城県沖、M7.4。その影響(地盤沈下)が潮位データに相対海水面上昇として現れているようだ。

東北地震、2003年5月26日、宮城県気仙沼沖の深さ71kmを震源とするマグニチュード7.1、モーメントマグニチュード7.0の地震。2005年8月16日宮城県沖の地震、宮城県沖の深さ約40kmでM7.2。これらは共に鮎川での海面上昇を加速したようである。

宮城県の周辺では今年も大きい地震、岩手・宮城内陸地震:2008年6月14日、M7.2があった。これはプレートの地震ではないが無関係ではないだろう。

ひょっとすると、これから近いうちに起こる(と予想されている)1936年の同タイプの地震で地盤が隆起するかもしれない。もしそうなれば横須賀海岸は隆起して砂浜がめでたく復活するだろう。しかし、その時は海岸に建設されたコンクリート構造物が地震で砂の中に埋没したり、いろいろなことが起こるに違いない。
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by beachmollusc | 2008-09-18 08:07 | 評論

潮位記録から推定された地盤変動

日本列島沿岸の年平均潮位(1894年~2005年)=グラフ
http://cais.gsi.go.jp/cmdc/center/annualgra.html
日本沿岸の験潮所で記録された海水面の年平均値の変動がグラフで公開されていました。

そして、潮位データを元にして、験潮所のある港の地盤変動を計算しています。
http://cais.gsi.go.jp/cmdc/center/hendou.html
潮位観測から推定された地盤変動 
加藤&津村(1979)の解析法による各験潮場の上下変動

これによって、海域ごとに同じような振る舞いをする場所をまとめて、それと過去の地震記録と対比できるように工夫されています。

全国的に砂浜侵食が問題になっている場所と地盤沈降の対比をしてみましたが、地盤変化が重要な要因であることが想像できます。

身近なところでは、日向市の小倉ヶ浜で砂浜侵食はありません。そして細島港の地盤はOKですが、油津港などではわずかに沈下する傾向が見えます。

鹿児島県阿久根市の脇本海岸も海水面が安定していてOKです。しかし、枕崎はやや沈降しています。砂浜侵食が深刻な吹上浜の近くに験潮所記録がないのが残念です。吹上浜の場合は海砂採取が怪しいと思っていますが、データがありません。

九十九里平野をはさんでいる銚子港と勝浦は変化が小さいようです。それと同様に、新潟平野の周辺で地盤変化は小さいようです。地下水のくみあげで平野部の天然ガス田部分に局限された地盤沈下は、周辺の岩礁海岸まで影響していないのでしょう。

仙台港は短期間の情報だけしかないので、仙台平野の両端の近いところの鮎川港、福島県の相馬港は共に地盤沈下が進んでいます。鮎川港は2005年に砂浜消失のショックがあった石巻市の横須賀海岸の近くです。

高知平野も気になります。室戸岬と足摺岬が共にゆっくりと沈下していますが、高知港は奇妙な変化を示しています。南海大地震が近くなれば、変化が明確になるでしょう。土佐清水港は南海地震の時の急激な地盤の上昇を潮位の変化で記録しています。(宇和島港も)
http://cais.gsi.go.jp/cmdc/center/graph/tosasimizug.gif
その後の緩やかな沈下が現在まで続いていることがわかります。

これまで論議していませんが、遠州灘の砂浜でも侵食が問題となっています。御前崎港の地盤がグングン沈下しています。これを見れば、遠州灘から駿河湾西部で起こっている砂浜侵食が地盤沈下の影響であることが言えそうです。東海地震はこのあたりが震源域となるはずです。大地震がかなり近いのかもしれません。清水港と焼津港でも沈下しています。

地殻変動と地盤変動が海岸で汀線移動を促していることは確からしく見えてきました。河川などからの土砂が大量に供給されている平野部では沈下の影響が出てくるのが遅くなるでしょうが、九十九里浜のように少ないところは仙台よりも早く侵食傾向が出てきたのでしょう。

宮崎平野の沖積部分の地盤が実際にどのようになっているのか、データが乏しいので判断できません。佐土原の周辺ではわずかに沈下しているようですが、その南側の水準点での過去の変動を調べねばなりません。オンラインではそれがまだ見つかりません。国土地理院サイトでは水準点についての詳しい位置情報を出していますが、過去の変動は示さず、変動を修正し続けています。
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by beachmollusc | 2008-09-18 00:40 | 海岸